谷崎潤一郎研究のつぶやきWeb

その4(2016年8月3日)谷崎周辺と下総

その3で書きましたとおり、『あやかしの深川』に掲載されている、宮部みゆき著『時雨鬼』に、次のような記述を見つけました。

「二十年近くも昔、そうこの深川のあたりがまだ朱引きの内に入らずに、下総しもうさの代官差配地だったころのことさ。あんた、十万坪とか六万坪とか呼ばれている、猿江や大島の新田の方へ行ったことはあるかい? あっちはずいぶんひなびているけれど、それでも今は武家屋敷がずいぶんあるだろ。あのころはもっともっと何もなくてさ、大きなお屋敷と言ったら一橋ひとつばし様があるっきりで、〈中略〉そのかわり梅林は見事でね。春には目も洗われるようだった。朝に晩に、青い掘割に沿って、満開の梅の上を、都鳥が群れをなして飛んで行く。極楽の眺めってのは、こういうのを言うのかなって思ったくらいだったよ」

猿江や大島の新田と谷崎との関連については、その2をご覧ください。

また、谷崎作品に深く関連のある、川田順の父もこの地域に関わりがありましたので、川田順著『葵の女―川田順自敍傳』から引用します。

琴子と鷹とは、明治の初め父が備中から東京に出て定住すると、やがて深川で生れた。その邸は現在清澄公園となつてゐる。父は何とかいふ大名の屋敷の一部を借りて、そこで家塾を開いたものと聞くが、大きな池があつて、琴子や鷹は舟を浮べて遊んだと云ふ。今日でも公園にその池はあるだろう。やがて父は牛込若宮町に移り、深川の邸は岩崎の所有となつた。

 参考:清澄庭園 - Wikipedia

この地には元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。
1878年(明治11年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。1880年(明治13年)に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。なお、1889年(明治22年)には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている[1]。

勾欄の間と池と築山。『夢の浮橋』の世界ですね。大正天皇の葬儀に用いられたという大正記念館も注目です。

これで、いろいろつながってきました。

以下、系図(谷崎潤一郎研究会で発表したときに使ったものですが、見やすく登録されていたので、そちらをご紹介します。)をご覧になりながら、お読みください。

  • 弟が養子に遣られた先が下総中山の薬種問屋
  • 父方の始祖、江沢局は里見氏の出
  • 谷崎家のお墓の近くに千葉周作のお墓
  • 小中村清矩の母と妻の実家臼倉家は千葉氏の支族
  • 大多喜藩は本多氏から始まって大河内氏(葵の女の嫁ぎ先は高崎藩の大河内氏)で幕末
  • 大多喜には小中村清矩の親戚もあり、銀座天賞堂の江澤家(谷崎の父との直接の関連は掴めず。いや、関係あると思うのですが。細江光著『谷崎潤一郎―深層のレトリック』で触れられています。)もある
  • 高崎藩の大河内輝声の自慢の母は、佐倉藩主堀田正睦の娘
  • いすみ市には鷗外の鷗荘と賀古鶴所の鶴荘
  • 葵の女の父は一橋家出身の徳川慶喜

 参考:
 江澤半右衛門のページ
 天賞堂 - Wikipedia

1878年、千葉県大多喜町出身の江沢金五郎(初代)が日本橋檜物町に出版業「江沢書房」を開業したのが始まりである。1879年に銀座尾張町に移転し篆刻を主とする印房店「天賞堂」として創業した。1888年から時計の扱いを、1891年から貴金属の販売を開始した。江沢金五郎は商才に長けた人物でもあり、日本初の宣伝カー(当時扱い始めた蓄音機を自動車に乗せた)や、これも日本最初の美人コンテストに景品を出したこともある。戦前の銀座本店は東京でも目立つ建物であり、夏目漱石のいくつかの作品中には「天賞堂」の名前が登場する。

美人コンテストに景品を出したというところが目を引きますね。夏目漱石のいくつかの作品に登場するというのも注目です。石川悌二著『近代作家の基礎的研究』の記述から、谷崎は、漱石と非常に近い縁なのではないかと考えています。

 旅グルメ 江澤家(大多喜)

明治9年に建築された重厚な蔵造りの住居。店蔵の奥に分厚い観音扉が見え、さらに右横の袖門など、城下町ならではの趣のある建物。屋号「釜屋」の金物店を営んでいた。2階の扉前には、「釜」と記された瓶があり、防火対策用の味噌が入ってたという。

というように、谷崎周辺と谷崎作品を考えるとき、下総国は、頻繁につながって来ます。

ここで、下総国についてチェックしてみましょう。

 下総国 - Wikipedia

古代末期から中世にかけて千葉氏が台頭し源頼朝を支援して鎌倉幕府創設に尽力した。鎌倉・室町時代と守護の地位を確保し中世には千葉氏の歴代当主が下総の守護と権介を兼ねるようになり、特別な敬意を込めて千葉介(ちばのすけ、「千葉郡を領する(権)介」)と呼称された。一方、最北部の結城郡を中心とした下野国との境界付近に根拠を持つ小山氏の庶流・結城氏も鎌倉幕府の創設に貢献して独自の勢力を築き、室町時代の一時期には下野国の守護に任じられている。

結城秀康は、谷崎作品に大きく埋め込まれており、重子さんの夫である渡辺明氏は、津山松平家(美作国津山藩10万石) - 秀康の長男忠直の子孫です。

なお、深川とは少しずれますが、やはり隅田川沿いということで、川田順著『葵の女―川田順自敍傳』川田順の母についても次のような記述がありましたので、付け加えておきます。

母方の親類なる本多姓の三四軒は、藏前や花川戸や安倍川町あたりに散在してゐて、駒込吉祥寺の母の墓に時々香華を供へてくれたらしかった。

花川戸といえば助六、助六といえば『瘋癲老人日記』ですね(^^) また、蔵前あたりには各藩の屋敷があり、高崎藩の抱屋敷もあります。
すみだあれこれ/すみだの大名屋敷/上野高崎藩抱屋敷

これをみると、谷崎作品に関連してくる大名家が集まっていますね。なお、谷崎の母は、谷崎の父と結婚する前に、本所石原町の長谷川家に寓居していたことが、石川悌二著『近代作家の基礎的研究』に掲載された資料でわかります。

いよいよ大きなまとまりになってきました。

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作ってしまいました(^^)