ラブレターズ

その315(2006.11.20)今年最初の忘年会

18日、今年最初の忘年会が新宿であった。
その日はやはり新宿で午後から1件用事があり、それが終わった後一休みしてから待ち合わせ場所の新宿三丁目の立ち飲み屋「いっぷく」へむかった。
立ち飲み屋さんは初めてだったので少し戸惑ったが、常連になってる方に教えてもらって、おでんなどを注文してすごした。
ここのおでんがまた絶品だ。見たことのないような豚のモツが具になっているのだが、それを何種類かの薬味を選んでいただく。私は柚子胡椒を選択したが、うん、あれは病みつきになる。
この後大久保の焼き鳥屋さん、次は明石焼きのお店に行った。帰る頃にはもう満腹。
実に楽しい時間だった。

さて、その忘年会で、タロットカードを持ってきた方がいらして、「私の今」というカードを出してくださった。「隠者」のカードだった。
ううっ、当っている(^^;;
昨年から今年にかけてなんだか沈滞していて、一時は首筋にびっしりと吹き出物を作っていたのだが、隠者の持つ光がある限り道を誤ることはないということで、なんだか元気が出てきた。ずーっと石橋をコツコツとたたいているような状況なのだが、その吹き出物もきれいに治ってきたし、来年はいい方向に行くかなぁと、そんな兆しが見えてきた気がする。


その314(2006.11.12)パパラッチ対策

また随分間が開いてしまった。谷崎については引き続き本を読んで研究中なので今後も続くが(^^; 今回はちょっと毛色の変った話題を。

17年前、新婚旅行から帰ってきた時、日本では少し物騒なニュースがあった。マサノリはこのニュースを聞いて、私に護身術のレクチャーをした。具体的にどうするかというのは少し強烈なので書かないが、ウッ! という顔をしている私に

「それくらいできるでしょ」

と言い放った。まあ、いざとなれば強烈でもなんでもできると思うけど。

でもまあ、狭い道でいきがる人相の悪いお兄さんを後ろに回って羽交い絞めにした経験をもつ彼なので、こういう類の話については大いに信頼している。
って、どうして羽交い絞めにしなくてはならない事態になったかというと、大勢で飲みにいったときに酔った私がうずくまってしまったことがどうやら発端だったらしい。なので、マサノリの勇姿は私は見ていない(^^;

話が横道にそれたが、そのレクチャーから17年、テレビでダイアナ妃がパパラッチに追いかけられて亡くなった話をやっていたのを見て、彼が言った。

「隠れようとするから追いかけてくるんだよ。どこでも抱き合ってれば、"本当か?" ってなるだろ」

とのたまった。
ほーほー。確かに一理ある。
でも、どういう感情をもって抱き合っているかという空気は周囲には伝わるよねぇ。写真からも伝わるよねぇ。普段からオープンにハグするということならまぁありかもしれないけれど、これはキャラにもよるし。

たとえば、私などを引き合いに出して恐縮だが、私は普段からどうも見えないバリアを周囲に張っているらしく、部下についてはすべてあだ名か呼び捨てで呼んでいたかつての上司でさえ、私だけは苗字プラスさん付けで通したというくらいなのだが、そういう私に対してさえお腹をつついてきたり、おー、○○さん(苗字ね(^^;)と言いながら両手を広げてきたりすることができる人がいる。
お腹をつつくなんてこと、マサノリ以外にできるのはその人くらいしかいないだろう。こういう人にはこちらもつい応じたりしてしまう。まあ、お互いに対象外だからできることだろう。もちろん嫌いな相手では無理だけど。これを見ても確かに周囲は何とも思わない。
こういう人ならそういう対処法もできるだろうけど、やはりそこには演技というものを加えないとハグに見えない。普段からそういう演技をしつけると、今度は逆に恋愛感情自体が友情へと変化するのではないかとも思ったりする。

そう考えると、人前でもやたらハグするという防衛法は、かなり無理があるのではないかなぁ。
それにあの頃ダイアナ妃は離婚していたといっても確かプリンセスオブウェールズの称号はあったのだし、立場的にも、キャラ的にもそれは無理かと。

なので、今回のマサノリのパパラッチ防衛術は大いに疑問符がつくのだ。
でも、希少価値が減ってパパラッチの情熱をさます効果は期待できるかも。


その313(2006.09.24)『秋刀魚の歌』

今まで「小田原事件」とやたら書いてきたが、小田原事件って何? という人も多いと思う。
小田原事件というのは、谷崎が千代の妹せい子(『痴人の愛』のモデル)と結婚し、佐藤春夫と千代が結婚するという約束をしたのだが、予想に反して
「やだわよ!」
の一言で谷崎はせい子から断られてしまった。で、その後佐藤と千代のところへ行って、約束を反故にした。これに怒った佐藤春夫が絶交を宣言し、以来谷崎・佐藤双方でこの事件を題材にした作品を発表しあうという事態になったという事件だ。この当時谷崎夫妻は小田原に住んでいたため、小田原事件という。

で、この時期が奇しくも佐藤春夫の全盛期ともいわれるのだが、その中でも『秋刀魚の歌』は読者の涙を絞った。
後に谷崎自身も、『佐藤春夫に与へて過去半生を語る書』で

「たとえばあの『秋風のうた』や『秋刀魚のうた』や、何んという題であったか淋しい兄弟の会話から成る戯曲などは、読んで覚えずホロリとしたくらゐだった」

と書いている。
実際、この作品のすごいところは、この詩一作で小田原事件について他に説明はいらないくらいみごとに表現されていることだ。

この詩が谷崎夫妻へどれほど強烈なメッセージを放ったか、ここでこの詩の全文を引用したい(ルビは括弧内に表記)。

あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば伝へてよ
──男ありて
今日の夕餉(ゆふげ)に ひとり
さんまを食(くら)ひて
思ひにふける と。

さんま、さんま、
そが上に青き蜜柑(みかん)の酸(す)をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎ来て夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸(はし)をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸(はら)をくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝(なれ)こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒(まどゐ)を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証(あかし)せよ かの一ときの団欒ゆめに非ずと。
あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失わざりし妻と
父を失わざりし幼児とに伝へてよ
──男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。

さんま、さんま、
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。

佐藤春夫は、この小田原事件を前に詩に出てくる妻と離別し、小田原事件の後別の女性と結婚するが、妻譲渡事件を前にその女性とも離婚している。

それにしてもこの作品がいかにヒットしたか。当時生れていなかった実家の母でさえ、秋刀魚を焼くたびに

さんま さんま さんま苦いかしょっぱいか

と口ずさんでいたくらいなのだ。私の母はおそらくこの詩の意味はさーっぱり理解していなかっただろうに。


その312(2006.09.21)『つれなかりせばなかなかに』

『蓼喰う虫』に関連して、瀬戸内寂聴著『つれなかりせばなかなかに―文豪谷崎の「妻譲渡事件」の真相』を読んだ。副題が文豪谷崎の「妻譲渡事件」の真相となっている。この著者が書いた伝記作品は今までもいくつか読んだ。が、この本は、伝記作品ではなく、主に和田六郎のご子息である和田周氏からの聞書きを中心としたいわば取材ノートになっている。
タイトルの「つれなかりせばなかなかに」というのは、佐藤春夫が千代夫人の15、6歳の頃の芸妓姿の写真と共に保存していた詩の一節からとられている。

この本には、周氏が父母と一緒に佐藤家へ行ったときの佐藤夫妻の様子や、戦後の食料のないときなのに料理上手な千代夫人が次々と手品のように料理を出してきて、さらに六郎氏のお皿のトンカツはさりげなく他の人の分より大きかったというエピソードも出てくる。それを子供だった周氏が「ずるいなぁ」と指摘したときの六郎氏の様子もなかなか面白い。

周氏は、親子で佐藤家を訪ねる前に、母親から父と千代夫人の恋愛の話も聞かされていたそうだ。文豪二人の妻になった人と昔大恋愛をしたということは、六郎氏にとって、誇らしいというのか、そういう気持ちもあったようだ。妻にそのいきさつを逐一話している。

ここで注目されるのは、妻との馴れ初めも千代夫人のことが尾を引いているのを感じることだ。
そのなれそめは、上司が離婚して、その妻が実家に帰っているところをくどき落としたというものだ。その際切り札にしたのが元夫のところに残した子供を引き取るという約束だ。千代夫人との事が壊れた最大の原因がこの子供の問題だったということは和田氏にもよくわかっていたのだろう。だが、結局この約束は言を左右にして実行されることはなく、妻は大変傷ついたらしい。

それでも千代夫人にとって六郎氏はいつまでもかわいい存在だったらしく、その妻には何かと厳しくあたっている(^^;

千代夫人は、『蓼喰う虫』の頃、それまでの梨の花のようなおとなしい性格から、夫にとって自分が女性でないことの苦悩を経て、恋人を持つことで自信を取り戻し、大所帯の要として家庭を切り盛りするようになっていた。この頃の千代夫人の様子は『谷崎家の思い出』に詳しいが、その言動、態度は女性から見てもまことにカッコイイ。終平氏が兄嫁の全盛期と表現したのもよくわかる。

が、佐藤春夫と結婚してからは恋のトキメキはなくなり、その人扱いのうまさが残った。おかげで佐藤家はいつも大勢の弟子がいたらしいが、佐藤春夫の情熱も比較的早く冷め、別の女性に夢中になったりしている。その一方で和田氏の妻にも興味を示し、こたつの下で手紙を渡そうとしているところを千代夫人にみつかり、和田夫人は以後出入り禁止になっている。

長い年月をかけて谷崎と千代夫人は離婚したわけだが、千代夫人にとって谷崎はやはり特別な存在だったのだろうなと思うことはある。鮎子さんという娘がいることもありその後も長く付き合いがあったわけだが、そのところどころで千代夫人の気持ちが見えるエピソードがあちこちの本で出てくる。作品上で何度も抹殺され、父母の面倒を見てくれという口実で遺棄され、極貧にあえぎ、散々な時期を過ごした末、小田原事件のあと、やはりどうしても谷崎にとって女性にはなりえなかったが、それまでとは違った微温湯のような(谷崎)幸せを経て、離婚に際しては千代夫人の養母や兄との話し合いまで谷崎がキチッと仕切った。谷崎にとっても、千代夫人は特別な存在だったのだと思う。


その311(2006.08.27)『谷崎潤一郎伝─堂々たる人生』(その2)

『蓼喰う虫』の頃について、谷崎潤一郎伝には第二の男(阿曾の真のモデル)の本名と、小田原事件の頃の佐藤春夫の長い長い「出さない手紙」の抜粋が載っていた。あと、その後谷崎が結婚しようとしていた女中さんの話も出てきたが、それ以外はこの件で特に目新しいものはなかった。が、私はこのときの千代夫人の心の動きに関心がある。
はたして千代夫人は佐藤春夫のもとに喜んで嫁いでいったのかと。

佐藤春夫とは、いくら小田原事件で引き裂かれたと言っても、千代夫人には既にお腹に子までできたとも言われる恋人がいたのだ。女性の心理としては、これはもう佐藤の件は過去のことだろう。
ではなぜ佐藤と結婚する気になったか。なぜ和田青年をそんなに簡単にあきらめたか。

和田青年は、千代夫人より8歳若く、まだ20代だったという。対して千代夫人には鮎子さんという子供がいる。和田青年と結婚する場合、鮎子さんは谷崎のもとに残す予定らしかったが、これは相当つらかっただろう。
佐藤春夫と結婚することに決まったときも、「鮎子さえ良ければ」と承知したという。

また、佐藤春夫がこの件を知って和田青年に千代を終生愛することができるかと問い詰めたとき、和田青年は「それはわからん」と答えた。そのことに佐藤春夫は大いに憤慨した(もっとも、この場合どのように答えようとも不満だったと思うが)。また、佐藤春夫が千代夫人を問い詰めていることを和田青年が友人である谷崎の末弟終平さんから聞いて激怒し、そのまま決別の手紙を出したという説もある。
佐藤春夫に相談することについては、和田青年との婚約が整う前に佐藤春夫に相談するべきではないかと千代夫人自身が谷崎に言い、はっきり決まる前に壊れることを恐れた谷崎が止めていたらしい。
小田原事件でのいきさつがある佐藤春夫に、別の男性と結婚することを後から知られるというのは千代夫人としてもつらかったのだろう。

谷崎潤一郎伝では、ここで高木治江著『谷崎家の思い出』から次の一説を引用し、このように書いている。

東京から二十代の和服姿の歌舞伎の女形のような青年が現れて、鮎子さんに麻雀を贈った。どういう青年か誰も知らない。先生には会わず、千代夫人に心ありげな素振りであったが、夫人もさりげない様子のまま、一泊して帰って行った不思議な青年である。
とあるのは傷心の和田だろう。

『谷崎家の思い出』には、この一節に入る前に、この頃鮎子さんがドッチボールを好んでやっていたが、書斎の谷崎から叱られること数度に及び、退屈していたときのことだと書いてある。終平さんあたりがこの状況を伝えていたのだろうか。

和田青年にしてみれば決別の手紙を書いたからといってすぐあきらめられるものではないだろうが、千代夫人としては、こうして壊れてしまったら、それは将来のある和田青年のためにも良かったのだと自分を律したのかもしれない。
決まった後、当事者(千代夫人の気持ちは不明)がそれぞれ「これでよかった、もっとも良いタイミングでもっとも傷の少ない方法で解決できた。」と言っているのもうなずけるような気がする。

余談だが、和田青年は戦後佐藤春夫の勧めで小説を書き、大坪砂男という名前で作家デビューしている。